バブル時代は原付もバリバリだった! いまや「YSR50」の方が「FZR1000」よりも高額物件に
バブル時代だったから企画がとおったであろう原付「YSR50」とは
1980年代、第一種原動機付自転車、いわゆる原付の人気が高かった。きっかけとなったのは、1976年に発売されたホンダ「ロードパル」だろうか。「ラッタッター」というソフィア・ローレンのCMを覚えている人もいるはずだ。
その後、ヤマハは「パッソル」を1977年に発売し、原付スクーターがバリエーションを増やすのと同時に、スクーターレースも各地で開催されるようになった。またスポーツタイプの原付も、ホンダ「MBX50」やヤマハ「RZ50」、カワサキ「AR50」、スズキ「RG50ガンマ」など、さまざまなモデルが登場した。
とにかく50cc以下でありながら、やたらと速くて乗っていて楽しいバイクやスクーターが、この時代に数多くリリースされていたのだ。
●12インチホイールという衝撃
そんななか1986年にヤマハから、画期的な原付「YSR50」が登場した。このバイクが衝撃的だった点は、ホイールが12インチを採用していたことにある。
同時期のスポーツタイプの原付は、おもに17インチホイールを採用していた。これは、もっと大きな排気量のスポーツバイク、たとえばヤマハなら「RZ250」や「TZR250」のイメージを受け継ぐということから選択されたものだ。
ところがYSR50は、フルカウルを装備しつつも、ホイールを12インチとすることで、レーシングマシンであった「YZR」のイメージを演出していたのだ。
さらに実際に走ったとき、この12インチホイールが大きな武器にもなった。
話は変わるが、ホンダが1987年に発売した「NSR50」も、やはり12インチホイールを採用していた。このNSR50の発売直前、筑波サーキットで開催された東京六大学対抗6時間耐久レースに、発売前のNSR50が賞典外で参戦したのだが、これがもう、メチャクチャに速かった。
そのレースに我々のチームは、レギュレーション上交換がOKとなっていたスプロケット交換をした「RZ50」で参戦していたのだが、NSR50はパワーやギア比といったことではなく、前面投影面積の小ささから、ストレートスピードが速かったのだ。
空力の大事さを知ったのがこのレースだったわけだが、そのポイントである12インチホイールをいち早く採用したのが、YSR50だったのだ。
しかし、YSR50には大きな弱点があった。それはエンジンが、アメリカンタイプの「RX50」に搭載されていた空冷2ストロークであったことだ。
これはYSR50が、スポーツタイプを手軽に楽しんでもらいたいということから開発された証でもある。本格的にスポーツするなら、1981年に発売したRZ50があるわけで、当時の判断としては正しいものだったのだろう。
しかし直後に発売されたNSR50があまりに本格的なものだったことが災いして、販売台数は低迷。1990年に「TZR50」、1993年には「TZM50」という、水冷2ストロークエンジンを搭載したモデルが登場することになる。
そんなYSR50が、RMサザビーズオークションに出品された。この個体は、ケイマン諸島にあるモーターミュージアムのコレクションで、にわかには信じられないことだが走行距離が、0.9マイル(約1.5km)である。1987年式の、おそらくはアメリカ仕様車「YSR50T」というモデルで、カウルのロゴやストロボラインには傷ひとつなく、空冷エンジンのフィンもまったく腐食していない。
そんな状態の良さと希少性からか、このYSR50は、6325ドル(邦貨換算約70万円)で落札された。
同じオークションに、ヤマハの1990年式「FZR1000」も出品されていた。こちらもYSR50と同じく、ケイマン諸島のモーターミュージアムのコレクションだったもので、ヨシムラ製の集合管を装備。走行距離は1万9000マイル(約3万400km)だが、さすがにコレクションだったものだけあって、樹脂パーツの変色はほぼなく、アルミフレームも美しい輝きを保っている。
そんな極上品といっていいFZR1000のハンマープライスは、4888ドル(邦貨換算約54万3000円)。なんと、YSR50の方が高額落札されたのである。
走行距離の少なさを勘案しても、車格や新車価格を考えたら完全に下剋上といってよい今回のオークション結果だった。