VAGUE(ヴァーグ)

「本物のトヨタ2000GTボンドカーに試乗!!」もはや国宝級だけに運転できただけで幸せです【旧車試乗】

本当は「カマロ」だったボンドカーが「2000GT」になった理由

 もともとトヨタ「2000GT」は、採算を度外視してでも「トヨタ」というブランド、ひいては日本車を世界に知らしめることを大きな目的として開発されたモデルといわれる。

 そして、その名声を一気に国際的なものとした最大の要因は、映画『007は二度死ぬ』(1967年公開)にて「ボンドカー」として出演を果たしたことにほかなるまい。

 この作品のためオープンに改装された2000GTは、わずか2台のみが製作されたにすぎないのだが、このほどVAGUEではテストドライブのチャンスに恵まれたのだ。

ヘッドライトを点灯したさま。その下のライトもヘッドライトのように見えるが、こちらはドライビングライト
ヘッドライトを点灯したさま。その下のライトもヘッドライトのように見えるが、こちらはドライビングライト

●ボンドカー伝説が生み出された経緯とは?

 トヨタ2000GTとジェームズ・ボンドのストーリーは、1965年末ごろまでさかのぼる。

 それまで「007」シリーズでは『007ゴールドフィンガー』(1964年公開)および『007サンダーボール作戦』(1965年公開)の双方でアストンマーティンDB5が元祖「ボンドカー」として登場していた。

 しかし日本が冒険の舞台となり、日本の映画スターも共演する第5作『007は二度死ぬ』(1967年公開/原題You Only Live Twice)の制作に際して、当初は配給元であるユナイテッド・アーティスツ社と北米GMとの契約から、1966年9月のデビューが決定していた初代シボレー「カマロ」を登用する予定だったといわれている。

 ところが、トヨタ2000GTのプロジェクトリーダーだった河野二郎氏は、1965年秋の東京モーターショウに第一次試作車を参考出品したのち、市販に向けて開発段階にあった2000GTを「ボンドカー」として世界に披露したいと考え、007シリーズの制作会社「イーオン・プロダクションズ」のアルバート・R.ブロッコリにアプローチを図ったという。

 ほどなくトヨタ自動車とイーオン・プロは合意に達し、2000GTボンドカーの製作に入るのだが、この時点でブロッコリから「ジェームズ・ボンドの顔がよく見えるように、フルオープンに改造してほしい」なる要望が出されたとの由。また、身長188cm(公称)という長身のコネリーが、低いルーフのクーペではカッコよく乗り降りできないからオープン化することにした……、ともいわれている。

 この段階では生産型2000GTは存在しなかったので、ベースとなったのは、実走テストに供するために10数台が作られたといわれる二次試作車のうちの2台。これが撮影用車両と予備車両に改装されることになった。

 この2台がベース車両としてピックアップされたのは、ほかのテストカーが市販型と同じく、マグネシウム製ディスクホイールを装着していたのに対して、東京モーターショウに出品された一次試作車と同じワイヤホイールが、たまたま装着されていたことが最大の理由とされている。

 そしてオープン化を含む車両製作は、レース車両や特殊車両については当時から経験豊富だったトヨペット・サービスセンターの綱島工場(現・トヨタテクノクラフト)が手がけた。

 トヨタ2000GTはロータス式のX型バックボーンフレームを持つため、たとえルーフを切り落としたとしてもモノコック構造よりは剛性を確保しやすい。ただ、それでも剛性不足が指摘されたため、トヨタ側ではルーフ部分だけを外せるタルガ式トップを提案したものの、ブロッコリが納得しなかったため、最終的にフルオープン案を採用。実際にカーチェイスシーンも展開された撮影車両には、サイドシルなどに補強が施された。

 また、一見したところではスタンダードから不変と映るフロントのウインドスクリーンは、より寝かせたデザインに仕立て直したほか、市販版ではハッチゲートを持つルーフがないので、トランクリッドなども新たにデザインされることになった。

 さらに映画の撮影の都合上、しばしばウインドスクリーンを取り外す必要があることを見越して、ガラスではなくアクリル樹脂をはめ込むことで間に合わせたほか、シート背後のトノカバーもダミーで、ソフトトップは当初から用意されていなかった。

Next行方不明だった「2000GT」ボンドカーはどこに?
Gallery 【画像】世界にたった2台しかない「2000GT」のボンドカー仕様とは(21枚)
ダイヤルに隕石を使う腕時計とはどんなもの?

page

RECOMMEND