VAGUE(ヴァーグ)

エンジンを切り、時計を外す場所。——松本の温泉宿「金宇館」で“自分の時間”を取り戻す旅

時間のギアを一段落とす宿

 ハンドルから手を離し、駐車場に静かにクルマを止める。エンジン音が消えると、耳に届くのは湯の気配と、庭を渡る風の音だけ。ポケットから腕時計を外して、客室のテーブルにそっと置く——。

 長野・松本、美ヶ原高原のふもとにある小さな温泉宿「金宇館」は、そんなふうに“時間のギアを一段落としたい”40〜50代の大人が向かうべき場所だと思う。

 ここには、絶景インフィニティ露天も、派手な演出もない。あるのは、昭和3年に建てられた木造3階建ての旅館と、石と緑と光で構成された庭、そして、季節ごとにまったく表情を変える料理と、静かな手仕事の痕跡だけだ。

「ミスマッチを起こさないために、あえて間口を広げない」

「広く集客するというより、僕らと価値観がフィットするお客様に来てほしいんです」

 金宇館の主人・金宇さんは、はっきり話す。この宿は昭和初期の木造建築を限りなく維持した宿。

 木造は音も響くし、木製の建具は気密性も劣る。急な階段や段差も多く誰もが快適に感じる宿ではないのかもしれない。それでもこの風情を求めて、ここには“わかっている大人”が集まってくる。

 3カ月ごとに季節を追いかけるように通うリピーターも少なくない。チェックアウト時に次の予約を入れ、「次は雪の庭を」「次は新緑を」と、自分のカレンダーに金宇館の時間を組み込んでいく。

 宿の規模は、本館5室+離れ1棟ほどの小さな器。“とりあえず観光ついでに一泊”というよりも、「ここで過ごすために旅程を組む」タイプの宿だ。

 実際、連泊しても、ほとんど外に出ずに中だけで完結してしまうゲストも多いという。クルマで来て、クルマは一度止めたらそのまま。

 代わりに、時間のほうがゆっくりと動き出す。

旅館に生まれ、東京で学び、再びこの家に戻るまで

 金宇さんは、旅館の中で生まれ育った。かつては本館の中に家族の住まいがあり、台所は厨房、お風呂は客用の浴場。休日という概念はほとんどなく、「家の手伝い=暮らし」だったという。

「だから、家業を継ぐことへの抵抗感はあまりなかった」と笑うが、進路は一度、外へ向いた。立教大学観光学部に進み、卒業後は那須の「二期倶楽部」へ。

 いま振り返れば、日本の“ライフスタイル型ホテル”の先駆けのような現場だ。

 そこでフロント・サービスを経験しながら、「いずれは実家に戻る」というイメージが、どんどん手前に引き寄せられていった。2年で那須を離れ、1年間だけ東京の日本料理店で包丁を握り、その後2009年に金宇館へ戻る。

 しかし、そのときの金宇館は、今の姿とはまるで違っていた。昭和初期に建てられたまま大きな改修もなく、廊下の共同トイレ、襖1枚で仕切られた和室。

 どちらかと言えば“地元の日帰り温泉+食事処”として利用されており、宿泊客の予約表は「真っ白な日も多かった」と振り返る。

 そこから先の10年は、「何を残し、どう直せば、この建物は次の100年を生きられるのか」を考え続ける時間になった。

“壊して建て替える”ではなく、“100年後もおかしくない形”へ

 大学生の頃の金宇さんは、「いっそ壊して新しいものを建てたほうがいいのでは」と思っていたという。周りには大きくて立派な旅館も多く、古い木造の建物は子ども心には、少しみすぼらしく見えた。

 けれど、一度外に出て、改めて我が家を見たとき、木造3階建てという存在自体が、もはや新築ではつくれない“財産”であると気づく。そこで出会ったのが、地元の北村建築設計事務所だった。

「古い建物をずっと研究してきた設計士さんで、木材ひとつ、和室の作法ひとつから教えてもらいました」

 10年間、営業を続けながら少しずつ改修を重ね、“うちにとって正しい直し方”を探っていく。そして2019年、ついに一度宿を休業し、建物全体の大改修へ踏み切った。

 やったことは、大きくいえばふたつだ。

 ひとつは、構造を「健全な状態に戻す」こと。沈下し、ゆがんでいた建物全体を一度きちんと起こし、その上に新しい要素を足していく。斜めの土台に化粧だけを重ねても、長くは持たないからだ。

 もうひとつは、「当時の素材と作法に戻す」こと。昭和3年の建築当時から残る部分は最大限に活かし、戦後に貼られた新建材などは思い切って剥がす。新しくつくる部分にも無垢材を用い、当時と同じような素材と技術で仕上げていく。

 建具の格子デザインや、漆喰の“下がり壁”の意匠も、すべてこの建物にオリジナルで残っていたものを写し取ったものだ。

「100年前に作られたものが、今見てもおかしくない。だったら、今つくるものも、100年後に見ておかしくないはずだ——」

 そんな会話を設計士と重ねながら、「目先のインパクト」ではなく「時間に耐えるデザイン」を選び続けたという。

庭に建物を“くっつける”という発想

 金宇館でまず印象に残るのが、石の庭だ。館内のどこから見ても、視線の先に石と緑と水のレイヤーがある。一見すると、昔からあった庭に、最低限の手入れを施しただけに見える。

 だが実際には、かなり大掛かりな仕事が裏側に隠れている。

 本館の改修にあたって、庭づくりを任されたのは、安曇野の庭師・ 國藤稔さん(庭のクニフジ)。

 山辺石と呼ばれる地元の石をふんだんに用い、浴室棟の新築工事ではまず庭を先につくり、その庭に建物を“くっつける”かたちで工事を進めたという。

 通常は、建物を建ててから庭を整える。だが、金宇館のように限られた敷地の中で既存の建物を維持しながらの現場では、後から庭をいじる余地がほとんどない。

 だからこその「庭が先」の選択だ。建築の設計図はあるものの、庭の高さや形状など現場合わせで建築工事を進める難工事だった。

 庭石の多くは、かつてこの地域で採掘され、松本城の石垣などにも使われてきた山辺石。

 いまは採掘が禁止されているため、地元の石屋がストックしていたものを分けてもらい、足元では見えないほど深く組み合わせて据えた。

 この“見えない部分に積まれた石”の存在は、そのまま金宇館という宿のあり方の比喩のようでもある。

 視線の高さも、徹底的に調整された。もともと畳敷きだった座敷から庭を眺めるための窓は、床に座った目線が基準になっている。

 そこでラウンジを椅子座に変えるにあたり、床を一段掘り下げ、椅子に座ったときの視線がかつての畳の高さに揃うように設計している。

 家具はすべて、松本在住の家具職人・前田大作さん(アトリエm4)による特注品。テーブルも椅子も、北欧名作家具を持ち込むのではなく、この建物のスケールと日本人の身体感覚に合わせて、少しだけ低く、落ち着く高さに設計されている。

 ロビーや廊下の静かな空気を支えているのは、彫刻家・沢田英夫さんの作品だ。

 手も足も削ぎ落とされたフォルムは、「何もないけれど、何かが確かにそこにある」という、この宿全体の感覚ときれいに共鳴している。

建物は変わらない。だから、料理で季節を動かす

 ハードがここまで作り込まれてしまうと、「ソフトは誰かに任せてもいいのでは」と考えたくなるが、調理場にも立ち続ける。

 修業期間は、東京の日本料理店での1年間+父からの背中。しかし、その後の10年以上はほぼ独学だという。

「建物は一度つくったら、そうそう変わらない。だからこそ、毎回変えられる“料理”で季節を動かしたいんです」

 既製品は一切使わず、旬の食材を少し“先取り”しながら、一皿ごとに遊びと驚きを仕込む。お品書きは出さない。

「今日は何が出てくるんだろう」という子どもみたいなワクワクを、大人にも味わってほしいからだ。

 実際、3カ月ごとに通う常連にとっては、料理こそが“時間のタクト”になっている。「あの季節の銀杏」「あの時の八寸」といった記憶が、それぞれの人生のタイムラインと密かに結びついていく。

AIの時代だからこそ「対面で時間を渡す」仕事は強い

 取材の最後に、金宇さんと「AIとこれからの仕事」の話になった。

 スマホのタイムラインは、これからますますAIが編集していく。インフルエンサーも、アルゴリズムも、やがては「生成された情報」の一部になっていくかもしれない。

 そのときに残るのは、「目の前でサービスを提供し、人に時間を手渡す仕事」だ。宿というフィールドは、その最たるものだろう。

 湯を張り、料理をつくり、部屋を整え、対面でゲストと会話し、その日の表情を見ておもてなしを変える。そのプロセスは、画面の向こう側では完結できない。

 クルマも時計も、“自分の時間をどう使うか”の象徴だ。移動手段としてのクルマ、社会の時間と同期するための時計。

 でも、たまにはその両方をそっと脇に置いて、「時間そのものを味わう」場所に身を置いてみてもいい。

 金宇館は、そんなリセットのための拠点としてちょうどいいスケール感だ。

 都心からハンドルを握り、山々を眺めながら高速を抜け、松本の市街を抜けて、美ヶ原のふもとの里山へ。

 駐車場にクルマを止めたら、エンジンと一緒に“仕事モード”も切る。

 あとは、庭石の数を数え、湯気の向こうの山の稜線を眺め、次の3カ月後にもう一度ここに戻って来る自分を、少しだけ楽しみにしておけばいい。

 金宇館は、そうやって“自分の時間を取り戻すための装置”として、静かにそこに立ち続けている。

Gallery 【画像】豊かな時間を過ごせる「金字館」の風景を画像で見る(31枚)
「カチッ」と日常をオフに。至福の時を刻む、マインドフルネス

VAGUEからのオススメ

“時を愉しむ”という究極の贅沢――カンパノラ「星響」と巡る、足利・静寂とウェルネスの旅【PR】

“時を愉しむ”という究極の贅沢――カンパノラ「星響」と巡る、足利・静寂とウェルネスの旅【PR】

RECOMMEND