「全国の食材が集まるレストランは本当にすごいのか?」壱岐島・半径10kmのフレンチ「彼は誰(かはたれ)」が翻訳する“島のリアル”とは
いわゆる従来のリゾートとは違う感覚
長崎県・壱岐島。玄界灘に浮かぶこの島は、神々が宿る島として知られ、エメラルドグリーンの穏やかな海と美しい砂浜のイメージで語られることが多い。
島の北東部、芦辺浦の高台に立つレストラン「彼は誰(かわたれ)」を訪れた日も、窓の外には鏡のように静かな海が広がり、どこまでも平和な時間が流れているように見えた。
しかし、この場所の主(あるじ)たちが語る言葉は、そんな牧歌的なイメージとは少し異なる。
「実は、この場所は風が轟々と吹きつけて荒く、ある種の『野生味』に溢れているんです」
建築家・篠崎竜大氏とインテリアを担当する妻の千恵美氏、シェフ・辻信太郎氏。 彼らがこの場所で見せようとしているのは、分かりやすいリゾートの「癒やし」ではない。

「老人憩いの家」から「廃墟」へ、そしてレストランへ
車で細い坂道を登った先に現れるコンクリートの建物。ここはかつて「老人憩いの家」と呼ばれた公共施設だった。
リノベーションを手掛けた篠崎氏は、あえて建物をきれいに整えすぎず、既存の施設が持っていた時間の痕跡を残したという。
「建築においては、ほぼ『廃墟』状態の既存の施設を活かして、若干の不気味さを残した空間にしています」
その言葉通り、店内に足を踏み入れると、洗練された設えの中にも、古いコンクリートの質感や、どこか突き放したような静けさが漂う。
いわゆる「リトリート(転地療養)」のような優しさだけではない、自然の厳しさや荒々しさも含めて客人に手渡すこと。それが、この空間の意図だ。
穏やかな凪の日には、その静けさがかえって、嵐の日の激しさを想像させる。窓枠によって切り取られた景色は、単なる背景ではなく、常に変化するインスタレーションのように、この島の「リアル」を投影し続けている。

「半径10km」の地図を描くフランス料理
この特異な空間で供されるのは、シェフ・辻信太郎氏によるフランス料理だ。 辻氏は壱岐出身だが、20年以上島外で働き、フランス料理の修行を積んできた。だからこそ、自分にはまだ若干の「よそ者感」があるという。

「東京のレストランに行くと、メニューに日本地図があり、全国から選りすぐりの食材が運ばれていることをアピールされることがあります。以前はそれがすごいことだと思っていました。でも、ある時『それって本当にすごいの?』と疑問を持ったんです」
長距離を移動すれば、食材もくたびれてしまう。 ここ壱岐では、畑から収穫した野菜を2時間後には調理できる。朝採れたものが夜にはレストランに並ぶ。その鮮度こそが、何よりの贅沢ではないか。
辻氏が目指すのは、全国の美食を集めた地図ではなく、「半径10kmの壱岐の地図」で表現する料理だ。

「不自由さ」という自由
もちろん、離島ゆえの制約はある。
「壱岐では豚や鳥がすぐ手に入るわけではないので、今までと同じことができるかは未知数です」
しかし、辻氏はその「縛り」さえも面白がって引き受ける。 フランス料理には、食材を頭から尻尾まで、動物の場合は血まで使って調理する文化がある。その精神性は、食材が限られる島だからこそ、より研ぎ澄まされる。
ウニやサザエ、カキといった海の幸はもちろん、渡り鳥や、庶民的なアジやイサキ、あるいは、島ならではの「カメノテ」や「ミナ貝」など、食材が持つ良い部分は壊さず、しかし自身のフィルターを通して料理する。
皿の上に現れるのは、煌びやかな高級食材のパレードではなく、壱岐の風土そのものを凝縮した一皿だ。朝食もまた然りだ。

夕暮れと夜明けの「あわい」に
店名の「彼は誰」は、薄暗がりの中で人の顔が見分けにくくなる時刻――、夜明け前を指す言葉だ。
「あなたは誰ですか(彼は誰ですか)」、それは、日常と非日常、内と外、そして「廃墟」と「再生」の境界線が曖昧になる、この場所の空気を象徴しているように思える。
穏やかな日には、窓の外の静寂に身を委ねればいい。 風の強い日には、窓ガラスを叩く自然の猛威を感じればいい。
ここにあるのは、作られたリゾート体験ではない。廃墟の記憶を宿したコンクリートの箱の中で、島の「今」を五感で味わう。そんな、大人だけに許された贅沢な冒険が待っている。
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