映画『ドライブ・マイ・カー』のサーブ「900」はどんな人が乗ってた?【バブル期のカタカナ職業人が選んだクルマ5選】
バブル期にカタカナ職業人が選んだ鉄板車3台とは
デザイナーや広告ディレクターなど、アタッシェケースでもあれば仕事には支障のなさそうなカタカナ職業人たちがサーブ900を選んだのに対して、大きなラゲッジスペースを必要とするクリエイター、たとえばフォトグラファーやスタイリストなどの分野で活躍する人たちがバブル時代にもっとも憧れたクルマといえば、やはりW124系「ミディアム・メルセデス」のエステートワゴン版「TE(S124)」であろう。

●メルセデス・ベンツ「230/300TE」
あの時代にはボルボ「240/740エステート」も高い人気を博していたが、TEはさらにその先。周囲から「先生」と呼ばれる立場になってから乗るクルマ……、という位置づけだったと記憶している。
当初ウエスタン自動車/ヤナセで正規輸入されたのは4気筒版の「230TE」だけだったことから、6気筒エンジンと「300」のバッヂで差をつけたい高級志向の人々は、当時日本でも林立していた並行輸入ディーラーから「300TE」を購入。そののち300TEの正規輸入が始まり、さらにミディアムが「Eクラス」と名乗ることになったバブル終焉後にも、その人気は不動のままであった。

●ランチア「デルタHFインテグラーレ」
ランチア「デルタHFインテグラーレ」は、FIA「グループA」規約で闘われることになったWRC(世界ラリー選手権)制覇を目指し、ランチアと旧アバルト技術陣が開発したスーパーウェポン。1980年にデビューした小型車「デルタ」の車体に、直4DOHCターボエンジンとフルタイム4WDシステムを押し込むという、いささか強引ともいえるモデルながら、その戦闘力はホンモノだった。
当初は「デルタHF4WD」として1987年にデビューするが、翌1988年にはエンジンをさらにチューンするとともに、ブリスターフェンダーを与えた「デルタ・インテグラーレ」に進化。さらに1989年にはエンジンを16バルブとした「インテグラーレ16V」。1992年にはボディのワイド化を図った「エヴォルツィオーネ」と、ラリーでの戦闘力を図るために次々と進化。その結果、WRCでは6年連続メイクスタイトルという前人未到の戦果を挙げたほか、市販ロードカーとしても日欧で熱狂的な支持を得たのだ。
この種のホモロゲーション用モデルは、ともすれば機能一辺倒となりがち。しかし、イタリア車の中でもとくにセンス推しのランチアは、内外装もおしゃれ。合成スウェード地のアルカンターラに、イタリアの高級ニットブランド「ミッソーニ」の手による鮮やかなニットを組み合わせたインテリアなど、独特のゴージャスな雰囲気も湛えていた。
それゆえ、現代以上に特別な存在であったフェラーリなど、憧れのスーパーカーへとつながる重要な通過点としても、特別な支持を受けていたように感じられる。

●デイムラー「ダブルシックス」
1968年に登場したジャガー「XJ6」の12気筒版「XJ12」の、そのまたデイムラー版にあたる上級バージョンとして1972年に登場したデイムラー「ダブルシックス」。ところが、モデルライフも末期を迎えていた1980年代末、バブル真っ盛りの日本で大人気を博すことになる。
1980年代初頭までジャガー/デイムラーを悩ませ続けた信頼性不足の問題が、この時代にようやく一定の解消を見たことも、この大ヒットの要因のひとつであることは間違いあるまい。
そして「自動車史上もっとも美しい4ドアサルーン」と呼ばれた流麗なスタイリングと、旧き良き英国の伝統を体現したレザーとウッドによる居心地の良いインテリア。そして何より5.3リッターV12エンジンの異次元的なスムーズさは、あらゆるクルマを知り尽くした、あるいは周囲にそう見られたいベテランのエンスージアストにとって「上がりのクルマ」に相応しい1台となった。
故徳大寺有恒氏を筆頭に、当時の自動車ジャーナルズムをけん引していた人々がこぞって入手したこともあって、当時コーンズの広報見習いだった筆者は彼らが乗りつけるダブルシックスに心の底から憧れ、それから四半世紀ののちようやく手に入れることができた。
購入当時、既に30年落ちとなっていたダブルシックスには、当然のことながらかなり手を焼いたものの、そんなことは入手する前から覚悟の上。古今東西のクルマの中でももっとも素晴らしい(と思っている)ドライブフィールを今いちど味わいつつ、ようやく自分もこのクルマに乗ることができるほどに年齢を重ねたことを、かみしめるかのように実感したのである。
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