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ホンダ創業者・本田宗一郎氏の“愛車”をオークションで発見 さまざまな物語を背負った 64年前の「白いロータス」とは

鈴鹿サーキットで初めてクラッシュしたのはこのクルマ!?

 2025年7月に英国バークシャー州タプロウで開催されるRMサザビーズのオークションに、1961年型のロータス エリート シリーズ2が出展されます。

 どんなクルマなのでしょうか。

オークションに出品予定の1961年式ロータス「エリート シリーズ2」Neil Fraser(c)2025 Courtesy of RM Sotheby's
オークションに出品予定の1961年式ロータス「エリート シリーズ2」Neil Fraser(c)2025 Courtesy of RM Sotheby's

 ロータスの総帥、コーリン・チャップマン氏が生み出したタイプ14「エリート」は、画期的なグラスファイバー製モノコックを採用していました。

ロータス エリートは1000台強が生産され、日本には数台が輸出されました。

 今回の出展車、シャシナンバー「EB1321837」は、1961年に日本に輸出された3台のうちの1台です。

 工場の記録によると、日本での最初のオーナーはホンダの創業者である本田宗一郎氏でした。

 宗一郎氏の息子で「無限」の創設者である本田博俊氏は、2021年に『クラシック&スポーツカー』誌の取材で以下のように答えています。

「エリートは世界最初の卵のようなものでした。フレームも独立したシャシもないUFOのようで、父はその新しさに興味を持っていました」

 エリートが宗一郎氏に与えた衝撃は大きく、ホンダ初の量産車の一台であるS600のダッシュボードはエリートにインスパイアされたと博俊氏は考えています。

 1962年にホンダは三重県に鈴鹿サーキットを完成。正式オープンする前でしたが、博俊氏はスプーンカーブでエリートを転倒させ、鈴鹿サーキットで最初にクラッシュしたドライバーになってしまいました。

 当時、エリートは日本に2台しかなく、誰も修理することができませんでした。ようやく東京で小さな修理工場を見つけましたが、それには長い時間がかかりました。

 このエリートは漆黒に再塗装され、本田家のクルマになりましたが、東京の薄暗い道では目立たず危ないので、博俊氏は宗一郎氏を説得して白に塗りかえました。

 その後、このクルマは宗一郎氏がホンダ国際技術学校に寄贈され、そこで何年も使われていました。

 1980年に分解されたエリートを譲り受けた委託先のオーナーは、2018年に英国ケント州のショップにレストアを依頼しました。

 エリートは3年かけてレストアされ、ZF製4速ギアボックスと1216ccのコベントリー・クライマックス エンジンに交換され、過去のクラッシュ修理はすべて元どおりに修復されました。

 ホンダの歴史にちなんでボディカラーはレーシングホワイトで仕上げられましたが、トランクの内側はサンドペーパーで削られ、鈴鹿でのクラッシュでできた窓枠の傷と同じように、以前の色の変化を見せるため剥き出しのまま残されました。

 ロータス「タイプ14」エリートは、きわめて美しいスタイリングに、コンペティションで活躍した血統、そして本物の希少性も備えた、まさに特別なクルマです。

 ましてや今回の出展車は、現代のクルマ社会を生み出すという先見の明を持った本田宗一郎氏が所有していたクルマです。

 この本田宗一郎氏が所有していた1961年型のロータス エリート シリーズ2、オークションでの落札価格は、7万英国ポンド〜10万英国ポンド(1英国ポンド=約197円として、約1379万円〜約1970万円)と予想されています。

Gallery 【画像】本田宗一郎が愛した1961年式ロータス「エリート」を写真で見る(33枚)
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