月輪熊から越冬人参まで「土地の伝承を味わう」究極の食体験――松本・明神館で知る“発酵”のエネルギーとは
発酵ドリンクから始まる、内臓のアイドリング
明神館のエントランスに足を踏み入れた瞬間、外界のノイズは完全に遮断された。ほのかに漂うお香の香りと、静寂に包まれた空間。
チェックインを済ませる頃には、日常のしがらみやデジタルの波からすっかり解放され、脳が心地よいアイドリング状態に入っていくのがわかる。
しかし、環境を変えただけでは真の「リトリート」は完成しない。疲労困憊の四十路の胃腸を労わり、細胞レベルから明日への活力を生み出すプロセスこそが不可欠だ。

ビジネスパーソンにとって、食事は単なる栄養補給でも、SNS映えを狙う美食比べでもない。自らのパフォーマンスを最大化し、体調を整えるためのものではないだろうか。
そんな、すっかりオフの顔になった自分を待っていたのは、和食統括料理長・内山哲也氏が手掛けるフルコース。和紙に認められたお品書きには、厳しい自然と伝承が息づく「信州の命」が並んでいる。
席に着くと、今回のディナーを貫く大きなテーマは「発酵」だと告げられた。
お料理に合わせて、普段なら捨ててしまうようなフルーツの皮や端材をアップサイクルし、酵素で発酵させた自家製のボタニカルドリンクが次々とペアリングされていく。
この発酵の力が、この後の身体に驚くべき変化をもたらすことになるとは、この時はまだ知る由もなかった。

幻のレンコンが、冷え切った自律神経を温める
最初に供された先付は「綿内れんこんスープ」。内山料理長によれば、長野市内でわずか数名しか生産していない「幻のれんこん」を使っているという。
すりおろしただけで強い粘り気と甘みを持つこのレンコンが、スープに絶妙なとろみを与えている。
一口すする。……あぁ、五臓六腑に染み渡るとはこのことか。
思わず安堵の吐息が漏れてしまった。温かくトロトロのスープが、胃の壁を優しく撫で回すようにコーティングしていく。長時間の移動や連日のストレスで冷え切っていた胃腸が、じんわりと内側から温められ、静かに目覚めを促されていくようだ。
交感神経の緊張が完全に解け、副交感神経へとバトンが渡される至福の瞬間。

続く前菜は、「菜の花胡麻和え」「蛤生姜煮」「大岩魚花 花わさび」「独活(うど)と桜海老金平」「信州プレミアム牛 蕗味噌」といった、春の息吹を凝縮したような品々。
信州の山の恵みと海の幸が交差し、視覚と味覚の両方から瑞々しい生命力を取り込んでいく。

神話の山の頂点、「熊」を喰らう不思議な感覚
コースが進むにつれ、御造里には「信州サーモン」や「蛍烏賊塩こうじ漬け」が登場し、焼肴には「越冬人参 キャベツみそ」が運ばれてきた。
雪の下で冬を越し、極限まで甘みを蓄えた越冬人参は、じっくりとローストされることでまるで焼き芋のような濃厚な香りを放つ。
それに合わせるのは、塩昆布などで仕立てた内山料理長オリジナルの「キャベツみそ」。野菜の甘みと発酵の旨味が絡み合い、身体の隅々にまでスッと吸収されていく。
そして、コースのハイライトとも言える強肴(しいざかな)が、「月輪熊(ツキノワグマ)つくね汁」であった。どんぐりをたっぷり食べて育った冬眠前の熊の肉は、嫌な臭みが全くなく、驚くほど脂が澄んでいる。
熱い汁を飲み下した時、ふと不思議な感覚に包まれた。
ここは天照大神が隠れた天岩戸を、神々が戸隠へと運ぶ途中に休んだという「神話」が息づく地。静寂に包まれた松本の山奥で、その山の生態系の頂点にいる熊や、雪の下を生き抜いた屈強な人参をいただいている。

一見、おとぎ話じみていて自分のビジネスライフとは関係ないように思える神話や伝承。
しかし今、間違いなく、その「物語の舞台にある食材」を自分の身体に取り込んでいるのである。古代の人々も、病や疲労に倒れたとき、こうしてその土地が持つエナジー(命)を直接体内に取り込むことで、自らを癒やし、再び立ち上がる力を得ていたのだろう。
「地産地消」とは単なるエコ活動などではなく、土地の伝承を丸ごと味わい、自分の活力へと変換する、極めてプリミティブで強力な自己治癒の儀式なのだと確信した。
究極の引き算。自ら育てた「扉米」の塩おにぎり
「地元の食材や発酵の力を使いこなすことは、美味しいだけでなく、お客様の身体を内側から整えることに直結します」
そう語る内山料理長の哲学は、コースの締めくくりに最も色濃く表れていた。凌ぎの「翡翠(ひすい)蕎麦 わらび」で口の中をさっぱりとさせた後、お食事として現れたのは、なんと「扉米 塩むすび」と焼き海苔。

高級旅館の〆といえば豪華な炊き込みご飯などを想像しがちだが、実はこのお米、新入社員から料理長まで、明神館のスタッフ全員が自らの手で泥まみれになって田植えをし、稲刈りから脱穀までを一貫して行った自家栽培米なのだという。
「自分たちで作ったお米だからこそ、最後まで面倒を見たい。だから余計な味付けはせず、塩おにぎりにして、パリパリに焼いた有明海の海苔で包んで食べていただくんです」と内山料理長は笑う。
両手で温かいおにぎりを持ち、海苔で巻いてかぶりつく。その瞬間の、米粒の輪郭と甘み、海苔の香ばしさ。これが異常にうまい。まるで日本食の原体験に触れたような、理屈抜きの幸福感が押し寄せてくる。
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