脳をリセットする松本の温泉に身を委ねる――明神館・代表取締役に聞く「ビジネスと日常に豊かな余白を生むヒント」とは
コロナを経て辿り着いた「クワイエット ラグジュアリー」の境地
テクノロジーの恩恵でどこでも効率的に働けるようになった分、つい空いた時間をスマホの通知確認やSNSで埋めてしまい、無意識のうちに脳を疲れさせている。
我ながら貧乏性というか、常に何かに追われていないと不安になる病気なのだと思う。
そこで標高1,050mの地へ赴き、「扉温泉 明神館」にて食事を通じて土地の伝承をたっぷりと味わったのが前回。
翌朝、澄み切った山の空気とともに目覚めた後、この特別な宿を率いる扉グループの代表取締役、齊藤氏にお話を伺った。

まず、いかにして心地よい余白を作るべきか。齊藤代表に明神館が掲げるコンセプトの真髄について尋ねた。
「ここは1931年、私の曾祖父が湯治場として始めたのが原点です。そこから時代を経て、一番大きく変わったのはお客様の『滞在のしかた』ですね。
以前は1泊の方が多かったのですが、コロナ禍以降は2,3泊されて、日中はあえてどこにも行かずに散策などをしながらゆっくり過ごされる方が増えました」
齊藤代表は、ゲストの価値観の変化を「クワイエット ラグジュアリー」という言葉で表現する。
「派手なものではなく、土地の根源から組み立てられた『本質』や『本物』の方向へと、お客様の価値観が移行してきたのを感じます。
それに合わせて私たちも、部屋数を減らして一部屋を広くする『ダウンサイズ』を進めています。例えば、以前は56平米だったお部屋を改装し、100平米以上のゆったりとした空間へと生まれ変わらせました。
数を追うのではなく、一人ひとりのお客様、そしてこの自然と深く向き合える空間を作りたいのです」
感銘を受けたのは、宿の豪華さやサービスを誇るのではなく、あくまで自然が主役であるという潔さ。
「お客様は『旅館』を目的として来てくださるのですが、実はそれはあくまでも手段であって、大本命は、周囲一帯の国定公園の自然の中に溶け込む、というところが一番の目的なのです」
究極の客室がデザインする「意図的なマインドフルネス」
齊藤代表のこの哲学は、今回滞在した客室「然 SPA Living」の細部にまで徹底して宿っていた。
客室のドアを開けて、少し驚いた。この広大でラグジュアリーな空間に、あるはずの「アレ」が存在しない。そう、テレビだ。
普段ならとりあえずリモコンを探すところだが、ここではその習慣すら野暮に思える。

「あえてテレビを置かない代わりに、レコードプレーヤーをご用意しています(「然 SPA Living」のみ)。レコードが奏でる音は自然界と同じ『1/fゆらぎ』を持っていますので、やはり癒やしの空間として、その音色を楽しんでいただきたいのです」
情報を受動的に浴び続けるディスプレイから離れ、自らの手で針を落として音楽を「聴く」という能動的でアナログな行為に意識を向ける。
さらに、客室の窓際にあるのは畳ではなく、埋め込んだソファとのこと。あまりの居心地のよさに、そのまま寝てしまう方も多いのだとか。

バスルームにも驚きがあった。お風呂に浸かりながら、山で採ってきた流木を眺められるように視線が計算されており、調光照明で明かりを落とすことができる。
「人間の心理として、何かを見ておかないと落ち着かないという面もありますから」と齊藤代表。空間のすべてが、自然と脳のノイズを静めてくれるように感じる。

そして、「然 SPA Living」と同じ然(ZEN)シリーズの部屋となる「然 湯治」には、「お抹茶のキット」のご用意がある。
「煎茶と違って、お抹茶は茶葉の栄養をまるごと取り込めます。そして何より、ご自身でお茶を点てるという行為を通じて、瞬間的にマインドフルネスを高め、雑念を手放していただく。そういう時間を楽しんでいただきたいという思いからのプレゼントです」
実際に、自分で茶筅を振り、無心にお茶を点ててみた。シャカシャカという音だけが響く。作法が合っているかはわからないが、そんなことはどうでもいい。
そしてゆったりとしたバスタブに浸かり、温冷交代浴で火照った身体を休めながら、レコードの音色と窓外の渓流のせせらぎに耳を澄ませる。

すると、頭の中に渦巻いていた仕事のノイズやプレッシャーが、嘘のようにスッと静かに引いていくのを感じた。人間、たまにはこういう「無駄」な時間が必要なんだと痛感する。
深夜の「立ち湯」で知る、水と静寂のクリアリング
明神館といえば、やはり忘れてはならないのが「湯治」の要である温泉だ。
館内には、露天風呂付き大浴場の「白龍」、枕木に頭をのせて空と山を仰ぐ寝湯「空山」、そして渓谷に向けて開け放たれた立ち湯「雪月花」という、趣の異なる3つの湯が用意されている。
深夜、浴衣姿でひと気のない廊下を抜け、立ち湯「雪月花」へと向かった。
あえて稼働率を抑え、ゲストにゆとりを持たせる宿の配慮のおかげか、広い湯船は見事に貸し切り状態。これがたまらなく贅沢だ。

渓谷側が開放された半露天風呂になっており、ひんやりとした外気とともに、国定公園の深い自然の「気」が直接肌に触れる。
立ったまま胸のあたりまで温かい湯に浸かり、ただじっと暗闇を見つめる。聞こえるのは、静寂をより際立たせる森の呼吸音。
スマホもない。通知もない。ただお湯の浮力に身を預けていると、日中の自分がいかに肩に力が入っていたかを思い知らされる。
翌朝、齊藤代表にこの温泉体験の素晴らしさを伝えると、こんな答えが返ってきた。
「当館では『よく眠れた』とおっしゃるお客様が非常に多いのですが、それは自然環境だけでなく、この温泉の力も大きいんです。特にお風呂に入ると水圧で結構な運動量になりますし、腸も活性化されますからね」
単に体を温めるだけでなく、水圧と自然の気によってコンディションを物理的に整える。まさに現代の「湯治」というわけだ。思い出すだけで、今でもアタマの中がすーっとクリアになっていくのがわかる。

イチゴ農園と田植え。地域と共生する「社会的ウェルネス」
齊藤代表のお話の中で、もうひとつ印象的だった取り組みがある。明神館を運営する扉グループは、ゲストの癒やしだけでなく、地域社会のウェルネスにも目を向けているのだ。
その象徴が、就労継続支援B型事業所「SATOYAMA FARM DEN+」が運営する自社農園でのイチゴ栽培である。
障害のある利用者が心を込めて育てたオリジナル品種「しあわせの扉」などのイチゴは、宿で提供されるだけでなく、地域住民を招いた内覧会でも振る舞われ、地元との温かい交流の場を生み出しているという。

さらに興味深かったのは、前夜のディナーでいただいた「自家栽培米(扉米)」に込められた意味だ。新入社員を中心としたスタッフが泥まみれになって田植えや稲刈りをするのには、単なる地産地消を超えた理由があった。
「うちのスタッフは県外から来る者が多いんです。彼らが信州の自然の中に自ら足を入れることで、やっと信州の一員になれる。
田んぼの水が冷たかったとか、風が気持ちよかったとか、そういう実体験があるからこそ、お客様に土地の魅力を伝える時の『言葉の説得力』が変わってくるんです」
「訪れる前に、住んでよし」。地域の人々やスタッフ自身がハッピーに生きているからこそ、松本という街や明神館の魅力が本物として伝わっていく。齊藤代表のこの言葉に、サステナブルな経営の核心を見た。
自然の中に身を置き、自分を取り戻す時間
今回の一連のリトリートを通じて、ひとつの気づきが生まれた。
これまでの自分は、予定を詰め込み、効率よく動くことばかりを無意識に求めていた。しかし、標高1,050mの自然に身を委ね、レコードの音色に耳を傾け、深夜の立ち湯で暗闇を見つめる。
こうして意図的にデジタルから離れ、五感を解放して初めて、すり減っていた心身が整い、自然と明日への活力が湧き上がってくるのを感じた。
チェックアウトを済ませ、エントランスで待つクルマのドアを開ける。行きとは全く違う、クリアになった頭と軽い体。まるで憑き物が落ちたかのようだ。
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