バブル時代の「世界一ゴージャスなクーペ」はどうして生まれた? ベントレー「コンチネンタルR」が誕生30周年を迎える
最新テクノロジーによって構築された至高のクーペとは?
2021年は、自動車史上に冠たる名作、あるいはエンスージアストの記憶に残るクルマたちが、記念すべき節目の年を迎えることになった。1991年春に世界初公開され、今年で生誕30周年を迎えたベントレー「コンチネンタルR」もそのひとつである。
今回はコンチネンタルRの誕生にまつわるストーリーを紹介することで、狂瀾のバブル時代に「世界一ゴージャスなクーペ」と呼ばれた名作へのリスペクトの想いを表することにしたい。
コンチネンタルRのデビューから、わずか10年ほど前に相当する1980年代初頭。ロールス・ロイス傘下にあった「ベントレー」のブランドネームは、もはや風前の灯火ともいうべき存亡の危機に瀕していた。1980年に姉妹車として誕生したベントレー「ミュルザンヌ」とR-R「シルヴァースピリット」の販売台数比は約1:9という、圧倒的な格差が生じていたのだ。
ところが1985年に「ベントレー・ターボR」が追加設定、大きなヒットを獲得したことで、この割合は大きく変化。1990年代のベントレーは、大いなる復活を遂げつつあった。
そんな折、1991年3月のジュネーヴ・ショーにおいて、1992年モデルとしてデビューした「コンチネンタルR」は、1965年まで生産された「S3コンチネンタル」以来、久々となるベントレー専売モデルであった。そのネーミングが示唆しているとおり、1952年から製作され、R-R傘下のベントレー最高傑作と称されることになった名車「Rタイプ・コンチネンタル」の精神を、1990年代当時の最新テクノロジーで再現した超高級パーソナルカーである。
アジアのエキゾティックな地名を試作車のコードネームにするという、第二次大戦後間もない時期からの伝統に従って、「ネパール」という社内コードネームとともに開発されたこのモデルは、ベントレーの1990年代を代表すべき最高のスポーツクーペとして企画された。
ターボRのプラットフォームを流用した流麗きわまるボディのデザインは、アストンマーティン「ヴィラージュ」でその実力を認められた新進気鋭のスタイリスト、ジョン・ヘファーナンと、同じく英国出身の若手ケン・グリーンレイが共同で手掛け、1985年のジュネーヴ・ショーに参考出品されたコンセプトカー「プロジェクト90」をベースとしたものである。
このデザイン習作をたたき台にして、ロールス・ロイス社内のデザイン部門所属のスタイリスト、グレアム・ハルとの協力で完成に導いたといわれている。
そのデザインワークでは従来のR-R/ベントレーの伝統を覆して、CADなど当時の最新テクノロジーを駆使しながら最新のボディラインを構築。また、実用性を損なうことなく最良の空力性能を実現するため、ウインドスクリーンの傾斜をはじめとする細かいディテールに至るまで、すべて入念な風洞実験を経て決定されたといわれている。
●クルーで作られることになった「コンチネンタルR」
しかしコンチネンタルR誕生の裏側には、どうやら当時のロールス・ロイス社の苦しい「お家事情」も深く影を落としていたようだ。
コンチネンタルRの正式発売開始とほぼ時を同じくした1992年2月、それまでロンドン北郊のウィルズデンにあった「マリナー・パークウォード」ファクトリーは、ロールス・ロイス社本体の経営悪化と高額なコーチビルドモデルへの需要後退から、ついに閉鎖を余儀なくされていた。
そこで、現在の「マリナー」の母体となるファクトリーは、ロンドンから遥か遠く離れたチェシャー州クルーにある旧ロールス・ロイス本社工場(現ベントレー本社)内に移転されることになったのだが、すでに老境を迎えつつあった熟練工たちの大多数から、クルーに設けられた新生マリナー・パークウォードへの転居を拒まれてしまう。
その結果、依然として手づくりの工程が大部分を占めていた旧来のコーニッシュ/コンチネンタルについては、もはやフェードアウトせざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
従って、旧コーニッシュ系に負けず複雑なデザインを与えられながらも、もとよりCADを活用して効率的に設計されていたコンチネンタルRならば、クルーへの移動を受け入れた少数の熟練工の指導のもと、通常のアセンブリーラインで製作できるという目算に基づいていたのである。
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