「旅なんて嫌いだ、でも……」アメージング・タイランドをめぐる、狂騒と静寂の5日間トラベルレポート
ームエタイと、熱狂と、飛び交う血潮とー(DAY 4)
滞在4日目。
今日がゆっくりと街を堪能できる、実質的に最後の長い長い一日。旅の計画を立てた時からずっと心待ちにしていた、最大の目的地へ向かう。
趣味でキックボクシングを始めてから約18年。それなりにジムで汗を流し、叩き叩かれの経験を積んできた自負はあった。だが恥ずかしながら、本場タイでムエタイを生で観たことは一度もなかった。今回はガイドであり、キックの師匠でもある先生に頼み込み、極めてディープなルートを組んでもらっている。
ムエタイはタイの国技だが、早い子では5歳くらいからプロとしてリングに上がるという。それは過酷な環境から抜け出し、家族の生活を支えるための切実な「仕事」だ。大人の趣味や健康維持のために嗜む僕たちのスポーツライクな競技とは、背負っている人生の重みが根本から異なっている。
ガイドに導かれて訪れたのは、タイ全土へ生放送されているテレビ番組の聖地「チャンネル7スタジアム」だ。

驚いたことに、ここには選手用の豪華な控え室など存在しない。スタジアム脇の屋外駐車場のようなスペースで、選手たちが青空の下、無造作にバンテージを巻かれ、全身にタイオイル、ナムマンムエを塗られている。あたり一面に漂うのは、むせかえるような強烈なハーブと薬草オイルの匂い。皮膚を黄金色に光らせる若き闘士たちの表情は、すでに研ぎ澄まされていた。

ドレスコード(なんと襟付きシャツ、長ズボンが必須)のチェックを抜け、会場内へ足を踏み入れる。サイズ感としては日本の後楽園ホールをひとまわり小さくした程度だが、そこに隙間なく客が詰め込まれている。老若男女、現地のおじさんから観光客まで、試合前から誰もが異様な熱気を孕んでいる。
選手がリングインすると、「サラマ」と呼ばれるタイの伝統楽器が、怪しげで甲高い旋律を奏で始めた。その独特の音色に合わせ、選手たちが「ワイクルー」と呼ばれる舞を踊る。仏や師に祈りを捧げ、無事にリングを降りられるよう願い、自らの流派を示す神聖な儀式だ。

だが、ゴングが鳴った瞬間にその静寂は粉々に打ち砕かれた。
第一試合から、白熱の展開。お互いに容赦のない高速のミドルキックが快音を立てて交錯し、危険な肘打ちが鋭く頬をかすめる。額から鮮血が噴き出しても、闘志が衰える気配は微塵もない。
単なるバイオレンスではないのだ。過酷な鍛錬と生活を背負い、リングに命を懸けるナックモエたちの、肉体を超えた精神。その洗練された覚悟と技がぶつかり合う凄絶な美しさに、観客は息をのみ熱狂する。

客席は歓声と怒号の大爆発だ。親族か、ジムメイトか、あるいは金を賭けたギャンブラーか。狂乱の渦の中で叫び続けるタイ人たち。
知らないタイ人の一面が、ここにあった。普段は穏やかで、ニコニコと微笑み、争いごとなど好みそうもない人々が、ここでは目を血走らせて白熱している。
しかし、まるで命を削り合うような熾烈な戦いを終えた瞬間、リング上の二人は急に人の良さそうな笑顔に戻り、ガッチリと抱き合った。この壮絶なノーサイドのギャップ。格闘家ならではの美徳でもあるが、やはり全てを大らかに飲み込むタイ人特有の気質を感じる。
全試合が終わり、熱気が渦巻く会場を後にする。全試合がタイトルマッチかと思うほどの熱量に当てられ、自分の血も完全に沸騰していた。観戦しているだけで身体の中に溜まった熱量を、今すぐどこかに吐き出したい。
さあ、次は見る側ではない。これからムエタイの名門ジム「チュワタナジム」へ向かうのだ。
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