「旅なんて嫌いだ、でも……」アメージング・タイランドをめぐる、狂騒と静寂の5日間トラベルレポート
ーレジェンドと、重圧と、狂乱の汗とー
チャンネル7スタジアムの狂乱を後にし、タクシーに揺られること30分。車は中華街(ヤワラー)近くの、車一台がやっと通れるような暗い路地へと入っていく。怪しげな軒先が並ぶ一角で、無骨なドアを開けた。
その瞬間、日本のジムでも聞き慣れた乾いた打撃音と、気を吐く声が全身を殴りつけてきた。
ここ「チュワタナジム」は、ムエタイの聖地ラジャダムナンで幾人もの世界王者を輩出してきた伝説の名門だ。敷居が高いかと思いきやビジターにも開かれており、本場の風を感じるにはこれ以上ない場所である。

さっそく挨拶を済ませ、バンテージを巻き直してリングへ向かう。そこでトレーナーとして紹介された人物の顔を見て、思わず息を呑んだ。
……嘘だろ。往年の名選手、ジョムトーン・チュワタナがいる!
14歳でラジャダムナンの王座に就き、3階級制覇。さらにはボクシングでも東洋太平洋王者に輝き、日本でも10数年にわたり猛威を振るった伝説のムエタイ戦士。そんなレジェンドから直接指導を受けられるなんて、格闘技好きとしてこれ以上の贅沢があるだろうか。
高鳴る胸を抑え、トレーニングへ入る。
……と思ったのも束の間。ロープワークからシャドー、ミット打ちへと進むにつれ、信じられないペースで自分の体力が削られていくのがわかった。開始わずか30分で、息が激しく吹き上がる。完全にガス欠だ。

「知っている」動作ばかりのはずなのに、一体どうしたことか。
原因の一つは、このジムに充満する圧倒的な温度と湿度だ。日本の快適で空調の効いた室内とはまるで違う。熱帯の生ぬるい空気と、歴戦の男たちの汗の匂いが混ざり合った、本場の「生の熱量」がそのままここにある。
そしてもう一つ、ミット越しに伝わるレジェンドの静かな迫力に完全に呑み込まれていた。ジョムトーンの重く厳しい受けから、「もっと来い! もっと打ってこい!」という無言のプレッシャーが容赦なく襲いかかってくる。過酷なリングを生き抜いてきたナックモエ(ムエタイ戦士)の誇りと、精神の美学。手を抜く隙など一瞬たりとも与えてもらえず、己の限界を超えて拳を叩きつけたくなる感覚に支配される。
必死で拳を突き出し、ミットを蹴り飛ばす。汗が目に入り、視界が滲む。身体の全細胞が「生きている」と叫んでいた。
気がつけば、怒涛の1時間メニューが終了していた。汗だくでリングに倒れ込みそうになりながら、絞り出すように言葉を吐き出す。
コップンカープ。
夢のような時間は、一瞬で過ぎ去っていった。そう、タイに到着してからというもの、ずっと時間の感覚がバグっている。
妙に時間が長く感じたり、短く感じたりする。
日本からバンコクへ飛び、夜のパタヤへ駆け抜け、ラーン島の風に吹かれ、再びバンコクの熱狂の中へ。怒濤のように駆け抜けたこの旅も、いよいよ終わりを迎えようとしていた。
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