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スーパーカー世代必見!? 半世紀以上前に登場したわずか337台の“日本の金字塔”トヨタ「2000GT」はなぜこれほど愛されるのか?

“万全の体制”でデビューを飾った「2000GT」

 前述のように、1965年の東京モーターショーでベールを脱いだ2000GTは、国内での認知度向上と車両の熟成を兼ねて、レースやスピードトライアルに挑戦しました。その詳細は以下の通りです。

トヨタ2000GTオーナーズクラブ・ジャパンの会長を2年間務めたSさんのトヨタ「2000GT」
トヨタ2000GTオーナーズクラブ・ジャパンの会長を2年間務めたSさんのトヨタ「2000GT」

 まず1966年5月、第3回日本グランプリにおいて3位入賞。同年10月には、茨城県谷田部の自動車高速試験場で行われたスピードトライアルに挑戦し、3つの世界新記録と13のクラス別国際新記録を樹立しました。

 そして1967年に公開された映画『007は二度死ぬ』では、ロードスター仕様にモディファイされた2000GTがその美しい姿を披露し、世界中にその名を知らしめました。市販開始の時点ですでに多くのクルマ好きを虜にしていた2000GTは、その発表から発売までの期間における活躍ぶりが実に目覚ましいものであったと言えるでしょう。

 このようにして、まさに“万全の体制”でデビューを飾った2000GTは、動力性能・スタイリングともに国際レベルに達していたことからも察せられるように、開発初期の段階から海外市場、とりわけアメリカ市場を強く意識していました。

 開発プロジェクトのリーダーである河野二郎氏は、「アメリカで売れなければ本物ではない」と口癖のように語っていたといわれており、現地のレギュレーションに対応するため、リトラクタブルタイプのヘッドライトを採用していたことも、それを物語っています。

 こうした背景を受け、トヨタはPR活動の一環として、2000GTをアメリカのサーキットで走らせることを決定。1967年5月の市販開始直後に参戦プランが立ち上がり、海外レースへの挑戦が本格化しました。

 海外でのレース活動は事実上初めてだったこともあり、マシン製作をはじめとするすべての業務は、キャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカン・レーシング・チームに委託されました。

 1968年初頭、トヨタとシェルビー・アメリカンとの正式契約が結ばれ、シェルビーはドライバーとしてデーブ・ジョーダンとスクーター・パトリックを指名。前者がゼッケンナンバー23番(青いボンネット)、後者が33番(赤いボンネット)のステアリングを担当することとなりました。

トヨタ「2000GT」のインテリア
トヨタ「2000GT」のインテリア

 結果として、2台のポルシェ911S、トライアンフTR250に次ぐ総合4位で1968年シーズンを終え、翌年の活躍が期待されましたが、トヨタは突如としてアメリカでのレース活動からの撤退を表明。2000GTによるSCCAレース参戦は、わずか1年で幕を閉じました。

 かつてトヨタ2000GTオーナーズクラブ・ジャパンの会長を2年間務めたSさん(76歳)は、1985年に後期型の2000GTを迎え入れました。それから40年が経過した現在も完調を維持し、すでに走行距離は9万km弱に達しています。

「コロナ前に2000GTで九州北部を回り、一昨年は四国を一周、昨年は東北を一周しました。今年は九州南部を2000GTで走ってきます」

 そう語ってくれたSさんの2000GTは、まもなく走行距離10万kmに達することでしょう。

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