ボタンひとつの「おいしい」は、誰かが何度も食べてつくっていた。炊飯器と電子レンジの中に宿る、人の舌と暮らしの記憶
その部屋では、白衣の研究者たちが黙々と食材に向き合っていた
滋賀県草津市。パナソニックの草津拠点に入り、受付を抜けて、奥へ奥へと進む。外からは見えない建物の一角に、その部屋はあった。

扉を開けると、白衣をまとった研究者たちが、それぞれの持ち場で静かに動いていた。
ある人は、まな板の上で食材を切っている。ある人は、はかりの前で分量を確認している。別の人は、電子レンジの前でストップウォッチを見つめている。奥のテーブルには、焼き上がった料理が並び、評価用の皿と記録用紙が置かれていた。
家庭のキッチンに似た匂いがする。けれど、そこに流れている空気はまるで違う。
料理をしているように見える。だが、ここで行われているのは料理そのものではない。食材がどう変わるのか。どの温度で、どの時間で、どの加熱に切り替えれば、誰が使っても同じようにおいしく仕上がるのか。その答えを探すための実験だった。
ヒートグリル皿の上には、鶏肉、パプリカ、ブロッコリーが並べられていた。鶏肉は生。パプリカは常温。ブロッコリーは冷凍。火の入り方も、大きさも、温度も違う。それらが同じ庫内に入れられ、電子レンジの扉が閉じられる。

スタートボタンが押された。
私たちにとっては、ただの「おまかせ調理」だ。けれど、その瞬間から、ラボでは秒単位の確認が始まっていた。
庫内では、レンジ、ヒーター、スチームが切り替わる。外では、担当者が制御のタイミングを見る。データやログを確認し、仕上がりを見て、最後は人が食べる。

ボタンひとつの便利さ。その裏側には、人の目と、人の手と、人の舌があった。
案内してくれたのは、調理機器事業本部 技術統括部 調理ソフト開発室、いわゆるPanasonic Cooking@Labの室長の明石英子さん。電子レンジの調理ソフト開発に長く携わってきた人物である。
「ひとつの調理の中でも、調理段階に応じて熱源や設定を変えて、加熱プログラムを設計しています。それがちゃんと指定の時間で切り替わるか、さまざまなデータを取りながら見ています」

明石さんの説明は、驚くほど淡々としていた。
しかし、その淡々とした言葉の背後にあるものは重い。家庭では何気なく押されるスタートボタン。その動作が本当に成立するまでに、誰かが何度も時間を測り、何度も焼き、何度も食べてきたのだ。

電子レンジが相手にしているのは、名前のある料理だけではない
電子レンジという家電は、ひとことで語れない。
温める。焼く。蒸す。解凍する。パンを焼く。冷凍食品を仕上げる。グリル料理をつくる。家庭用のビストロだけでなく、海外向け、業務用、コンビニエンスストアやカフェチェーン向けの機器まで、開発の対象は広い。
その広さこそが、電子レンジ開発の難しさだ。
「電子レンジは調理の幅が非常に広いんです。その中で、基本性能を作り込むための基準メニューを決めています」
明石さんはそう話す。
かつてのオーブンレンジは、ある料理を最高の状態に仕上げることを目指していた。鶏の塩焼きならこの手順。ハンバーグならこの分量。そのレシピ通りに作れば、もっともおいしく仕上がる。いわば、一品ごとに100点を取りにいく開発だった。
だが、今の家庭料理は、毎日レシピ通りに材料をきちんと揃えて手作りするほどの余裕はない。

仕事から帰り、冷蔵庫を開ける。使いかけの野菜がある。少し残った肉がある。冷凍庫に眠っていた食材がある。そこから夕食を考える。料理名はない。レシピもない。それでも、その日の食卓はそこで生まれる。
「レシピ通りに作ればうまくいく。でも、そもそもそのレシピ通りに作る時間がない、買い物に行く時間もないという方が増えてきました。日々食べているものって、名前のある料理ばかりではないですよね。冷蔵庫にある食材を組み合わせて、なんとなく一品作る。そういう“名もなき料理”に対応する必要が出てきたんです」
名もなき料理。
その言葉は、いまの食卓の現実をよく表している。雑誌に載る料理でも、レシピサイトで検索される料理でもない。けれど、平日の夜にもっともよく作られているのは、そういう料理かもしれない。
電子レンジは、その曖昧さを受け止めようとしていた。
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