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せっかくの改良案が「一発でボツ」の衝撃! トヨタ「クラウン」はなぜセダンの常識を破って「4つのモデル」へと生まれ変わったのか

「保守的な高級セダン」は誤解!? 過去15世代が重ねてきた挑戦

 クルマには、人と同じように“生き様”があります。それはカタログを飾るスペックや販売台数の多寡ではなく、時代の荒波の中で何を信じ、なんのために自らの形を変えて立ち向かうのかという意志の軌跡です。

 トヨタ自動車の乗用車の頂点として、日本のモータリゼーションの歩みそのものを背負ってきた「クラウン」。世間では時に「保守的な高級セダンの代表格」と揶揄されることもありましたが、それは決定的な誤解でした。

 歴代「クラウン」の足跡を振り返れば、常にその時代の最先端技術と世相に真正面から向き合い、自らを壊しながら更新し続けてきた“変革と挑戦の連続”だったからです。

 1955年、戦後の混乱期に純国産設計の意地を賭けて世に問われた初代は、日本の自動車産業の夜明けを告げる記念碑でした。その気概を証明すべく、1957年にはトヨタ車として初めてモータースポーツの舞台となる「オーストラリア1周ラリー」へと参戦。過酷な道を走り切る快挙を成し遂げています。

 その後、高速道路時代を見据えて耐久性とスタビリティを進化させ、カスタム(ワゴン)やバン、ピックアップといった多様な働く現場への展開を広げた2代目。

 法人ユースが主流だった時代にいち早くオーナードライバー向けへと舵を切り、パーソナルカーの先駆けとなる2ドアハードトップを送り出した3代目。

 そして、“スピンドルシェイプ”と呼ばれる大胆な前衛的デザインで、市場に大きな賛否両論を巻き起こした4代目。

 厳しい排ガス規制に真正面から立ち向かいながら、4ドアピラーレスハードトップを設定した5代目。

 エレクトロニクスを取り入れ、近代化を一気に推し進めた6代目。

「いつかはクラウン」の名コピーとともに、日本の豊かさの象徴となった7代目。

 バブル絶頂期に歴代最高の販売台数を記録した8代目。

 トップエンドに君臨した「マジェスタ」の陰で苦闘した9代目。

 バブル崩壊の激変の中で、フレーム構造からモノコックボディへと大転換を果たした10代目。

 さらに、ハードトップからセダンへの原点回帰と同時に、「ロイヤル/アスリート」の走りを宿した本格ワゴンを昇華させた11代目。

 プラットフォームもエンジンもすべてをゼロから刷新し、“静から動へ”と走りの大改革を断行した12代目“ゼロクラウン”。

 いち早く時代の要請であるハイブリッドを搭載した13代目。

 前代未聞の稲妻グリルやピンクのボディカラーで、世間を騒然とさせた14代目。

 そして、先代となる15代目では、10代目から延々と受け継いできたシャシーと決別し、TNGAに基づく新骨格“GA-Lナロー”を採用。伝統の日本専用1800mm幅を守りながら、市販車開発の聖地「ニュルブルクリンク」で徹底的に走り込み、ワインディングで「お前はスポーツセダンか!」とうならされるほどの世界基準のハンドリングを身につけました。

現行型「クラウン・クロスオーバー」と豊田章男氏
現行型「クラウン・クロスオーバー」と豊田章男氏

 こうして振り返ると、「クラウン」は決してひとつの形に固執してきたわけではありません。セダン、2ドア/4ドアハードトップ、ステーションワゴン、バン、ピックアップと、人々のあらゆる暮らしと用途に合わせて姿を変えながら時代を切り拓いてきた、極めて柔軟で果敢な挑戦者だったのです。

 何より、トヨタ自動車の現会長である豊田章男氏こそは、その「クラウン」の歴史と酸いも甘いもリアルに知り尽くしてきた数少ない人でした。

 生まれた時から自宅のガレージには常に「クラウン」があり、10歳の時には、父・章一郎氏が運転する2代目の後席で、「日本グランプリ」からの帰路に大渋滞を経験。ようやく目にした朝日は、今も忘れられない思い出になっているといいます。

 トヨタに入社して最初に配属された元町工場では、工長たちが誇らしげに乗る8代目の生産準備に汗を流し、2000年代初頭にはマスターテストドライバーの成瀬弘氏による過酷な運転訓練の中で、12代目“ゼロクラウン”の走りの革新を自らの身体のセンサーに刻み込んできました。

 さらに、スキーの上級者としても知られる章男氏は、若い頃にスキー場へ通う際の愛車として「クラウン」のステーションワゴンを所有。まさに、自らの“相棒”としてプライベートを共に過ごした経験を持っています。

 現行16代目の発表会におけるスピーチで「荷物をたくさん積んでスキーに行く時、いつもいっしょだったのが『クラウン』のワゴンだった」と懐かしそうに振り返ったように、たくさんの思い出が詰まったワゴンは、章男氏にとって生活に寄り添う特別な存在そのものでした。

初代「クラウン」は1957年の豪州一周ラリーに参戦
初代「クラウン」は1957年の豪州一周ラリーに参戦

 セダンという格式にとどまらず、荷物を満載にして雪道を駆け抜ける実用性と頼もしさ。その多様な可能性と温もりを、誰よりも肌身で知っていたのが章男氏だったのです。

●このままでは「クラウン」は終わる…章男氏が開発案を退けた理由

 しかし、その輝かしい歴史と積み上げた栄光こそが、いつしか「クラウン」を身動きできなくさせる強固な足かせへと変貌していました。

 2000年代以降、レクサスブランドの日本上陸、広大な空間でエグゼクティブの心を奪った「アルファード/ヴェルファイア」の台頭、輸入プレミアム勢の猛攻、そして世界的なセダン市場の縮小……人々の意識は「いつかは『クラウン』」から「誰でも『クラウン』」、そして「本当に『クラウン』でいいのか?」という冷めた視線へと変わり、知名度はあっても誰もが自分事として見向きもしない“他人事のクルマ”になってしまっていました。

 15代目が「ニュルブルクリンク」で手に入れた欧州車顔負けの走りをもってしても、販売の凋落に歯止めはかかりませんでした。

 3ボックスセダン、FRレイアウト、全幅1800mm枠という「クラウン」の掟にすがりついている限り、どれほど走りを研ぎ澄ませても世間からは「保守的な高級セダン」という色眼鏡で見られる。枠組みそのものを疑わなければ、生き残れないところまで追い詰められていたのです。

 それを容赦なく打ち砕いたのが、2020年頃のトヨタ社内の「商品化決定会議」でした。

 15代目のチーフエンジニアを引き継いだ皿田明弘氏率いる開発陣が提出したマイナーチェンジのデザインスケッチに対し、議長席に座る豊田章男社長(当時)は「本当にこれで『クラウン』が進化できるのか?」と冷徹に問いかけました。

 同席していた当時のミッドサイズ・ビークル・カンパニー プレジデントの中嶋裕樹氏が「疑問というより怒りに近かった」と証言するそのひと言で、提出案は一発でボツとなったのです。

 これは社内でも前代未聞の出来事でした。

Next“一発ボツ”から始まった大改革! 開発陣が見いだした「クラウン」の本質
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